話は飛んで、大学入学から就職までですが、浪人も留年も体験し、人よりかなり遅れで卒業しました。まず、大学入学当初は、司法試験に受かりたいと思っていました。少なくとも、2年生までは。ですが、3年生から、本格的に法律の勉強になると、正直言って、面白くなかった。学説は多彩な議論を繰り広げますが、結論が変わらないことが多いのが法律学の世界です。何のために議論をしているのか、当時はよく理解できなかったのです。ただ、一度揚げた旗でも有り、両親には申し訳ないことですが、司法試験を目指しているからと言って、大学にじっと残っていました。
留年生活も、ふと気づくと1年が過ぎ、流石にこれだけ楽しいと思えない司法試験の勉強は、もうやめようと決断しました。バブルの時期とはいえ、まっとうに就職して働くには、流石に限界だろうと思いました。また、改めて、その時に思ったのが、法律も好きではないないのですが、法廷に関わって働く法律家、法曹の仕事は、もしかしたら自分は、もっと好きではないのではないか?ということでした。本当に、今更ながら、自分の根っこの気持ちに気がついたのでした。
法曹の仕事は、基本的に「待ち」の仕事です。自分は、前向きに何かを企画してよい方向に変えていく仕事が(性格から言っても)好みだったのです。間抜けな話ですが、好みの仕事でなかったことに、二十歳を過ぎてから気がつきました。もちろん、犯罪から、あるいは社会の紛争解決のために、社会の健全性をメンテナンスする仕事は、とても素晴らしい仕事です。しかし、自分がやりたいことでなかったことに気付くと、いきなり、人生を考えなおさないといけない状態に追い込まれまたのでした。泥縄もいいところです。現在の自分の能力、大学での勉強といった客観条件を踏まえながら、1月程度でしょうか、本当にインスタントに考えて思いついた選択肢は、3つでした。
1つ目は、国家公務員。
2つ目は、子供の頃からの落語好きだったので、落語担当のNHKのディレクター。
3つ目は、これがダメだったら、どこでもいいから働こう!です。
法曹を諦めたときに、まず国家公務員になろうと思いました。(客観的な条件として)既に長い時間にわたって法律の勉強をしていたこともありますが、1番の理由は、知的好奇心です。どうやって、この国の政治が、行政が、動いているのか、ものごとを決めているのかを内部に入って知りたかった…と急に思いつきました。そんな気持ちでした。その際、逆についていたのは、浪人を長くしていたこと、そして司法試験の勉強をしていたこと。国家公務員試験の過去問は、1次試験も2次試験も全く知らずに受けたのですが、1次試験の内容は、今で言うセンター試験+なぞなそみたいな問題なのです。そんな基礎知識だけは、受験勉強を長くした分、身についていたので、受かったのだろうと思いました。
もう1つの急ごしらえの夢である、落語担当ディレクター。これは面接で、担当ディレクターとも話すことが出来るところまで行ったのですが…、肝心の面接前に、役所の合否が分かってしまい、自分の中の緊張の糸が切れてしまっていました。今ならもう少しうまく振る舞えるのかも知れませんが、当時は出来ませんでした。面接では本気の緊張感がないと、やはりダメですね。いまは2番目と書きましたが、実際に受かっていたら、こちらを選んだ可能性も大だと思います。当時は、まあ、この手の職業には就けない運命だったのかと、自分を慰めました。
そんな運命もあったのか、役人になりました。役人なって、自分に「適性」があるかは、やってみないとわからないのですが、役所に入って最初に思ったのは…、実のところは「辞めようか」ということでした。(苦笑)初日のこと、色々な入省の儀式があり、気がつくと終電間近の時間です。この後どうするのかと思っていたら、「今日は、初日だから、終電で帰って良いよ」との話。国の役人の長時間労働は、うすうすは知っていましたが、言葉で言われると、流石にショックでした。今の役所は、電子化による仕事の合理化や働き方改革も有り、大部様相は変わっていますが、当時は、本当にブラック…のようでした。
とはいえ、1日で辞めたりすれば、普通なら(根性なしと言うことで)再就職できない、少なくとも再就職しがたくなることは分かりますから、せめて、3年~4年はこの仕事をして、転職したときにアピールできるキャリアを積んでから辞めることにしよう。ともかく3年頑は張ろうと思って働きました。
最初の1年は、ただ無我夢中で働きました。連日の泊まり込み、土日はひたすら家で寝るという生活だったと思います。ただ、自分の属する組織の仕事の内容、仕事のこなし方、人間関係の作り方といった、社会人としての基本は、この時期にたたき込められたと思います。2年目は、下に1年生が入ってきたので、大部楽になりました。ちょっと楽になると、まだ辞めなくてもいいかな?と思い始めます。現金なものです。
3年目に、熊本県の町役場に出向し、5年目には、食糧庁という米価を決める部署に戻ってきました。ここでは米価審議会の議論を経て、政府が所有するお米の売却価格を決めるのですが、この仕事はやりがいはありますが、きつい仕事でした。だいたい、一か月間、睡眠時間が毎日数時間程度の生活が続いたと思います。
当時の米価審議会は、2回開いて、米価を決めるのですが、1回目の米価審議会後に、政権交代が有り、事務方はかなり大変な状況でした。人繰りが足りなくなり、通常、少なくとも補佐以上がする経過報告の記者会見を、私がやる羽目になったこともありました。当時はひやひやものでしたが、今となっては良い思い出です。
また、覚えていられる方もおられると思いますが、当時のお米パニックの渦中での食糧庁勤務でしたので、食糧管理法の全面改正にも、業務として担当するという、貴重な経験をさせてもらえました。いずれにしても、行政における政策決定プロセスを、身近で体験することが出来、当初求めていた「知的好奇心」は、かなり満たされたと感じました。
それ以外にも色々な業務に携わり、気がつくと10年近い時間が経っていました。責任も大きな仕事ですから、精神的にもきつい部分もありましたが、仕事そのものは「面白い」と思いながら、社会人としてのスキル、知識も身につけ、それなりに、楽しく過ごすことができたものと思います。ただ、自分が「原点」で求めていたような「楽しさ」「感動」は、残念ながらあまり感じられないなと思ったのも確かでした。
私自身は食糧法改正や米価決定などの、行政としてもやるべき重要な仕事に、偶然、当事者として関与できる機会があったので、役人としても、ついていたと思います。が、同時に、実際に重要な政策決定の場に立ち会えるかどうかは、タイミング次第だなとも感じました。
食糧管理法の改正にせよ、それ以外の重要政策にせよ、実現できる場に立ち会えるかどうかは、かなりの部分、タイミングに支配されます。どんなに力量がある方でも、乗り切れないタイミングであれば、やりたいと思った政策を実現出来ないでしょう。また、当然のことですが、やりたいと希望しても、担当になれるわけではないのが、組織の仕事です。
もちろん、力量のある方は、自ら仕事を呼び込むことも出来ると思いますが、自分にはそれまでの力は無いことも、役人というマシーンに成り切って仕事を淡々とこなすことができないことも、重々理解できるようになっていました。
(ちなみに、この10年間は、エゴグラム分析の観点からは、プライベートと分離した仕事人格を形成する過程であったとも、思います。分かれた2つの人格を生きる。それが、10年目以降の私でした。)
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