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【厚生労働省セミナー】
教育事業者へのナレッジ

【日本マンパワー】片山繁載様

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波乱のキャリアから生まれた新ビジネス!
「50代を輝かせる」キャリア支援 誕生秘話


株式会社日本マンパワー
取締役 片山 繁載 様
(2016年2月掲載)

今回は、株式会社日本マンパワー 取締役の片山繁載様にお話をお伺い致しました。
片山様は、40代で取締役に就任された後、契約社員への降格を経て、再度、取締役に就任されるという、非常に波乱万丈なキャリアの持ち主です。
現在は、ご自身の経験を糧に、「50代を輝かせる」ことをライフワークに掲げ、シニア世代のためのキャリア支援・キャリア教育に力を入れた活動を進められています。
今回は片山様に、ご自身のキャリアやシニア世代のキャリアデザインの考え方について、お話をお伺いしました。
(インタビュアー:株式会社アジア・ひと・しくみ研究所 代表取締役 新井健一 様)

順調なキャリアのスタート

新井 今回は日本マンパワー取締役を務めていらっしゃる片山繁載様にお話をお伺いします。まずは自己紹介からお願いします。

片山 1953年香川県生まれ、現在62歳です。
日本マンパワーの入社は1978年で、前職は大阪市役所の職員をしていました。
高校卒業後に大阪市役所に入り、夜学で大学に通って土木の勉強をしていました。
市役所退職後、法政大学で社会学や心理学を学び、25歳の時に日本マンパワーに入社しました。

新井 当時から特異なキャリアだったのですね。日本マンパワーでのキャリアのスタートは順調だったのでしょうか。

片山 入社したころは、社員研修や通信教育事業といった「人」に関わる商売が上手くいくかどうか悩んだ時期もありましたが、2年おきに昇進・昇格を重ねて、30歳の時には課長職になっていました。

新井 課長になられてからはどんな仕事をされていましたか。

片山 最初は通信教育の販売業務です。新聞広告を出して受講生を集める仕事です。
その後、社員研修の法人営業部門という、私としては畑違いの部門に行くように言われました。

新井 当時の経営環境はどうだったんでしょうか。

片山 入社から10年くらいは順調でしたが、1990年始めにバブルが終わり、その後5年間は大変厳しい時期でした。
我々の事業環境も大きく変化しました。教育研修費も3Kの一つとしてカットされ、なかなかうまくいかないときに、法人営業部門の部長になりました。
大手企業のクライアントであっても、500万円近くの社員研修を受託していたものが全て無くなってしまう、というようなことも頻繁にありました。

新井 そんな時期に営業部門に異動されたということでしたが、どんなご苦労がありましたか。

片山 それまで法人営業の経験はありませんでしたが、販売促進の経験はありましたので、足を使った顧客獲得も広告を使った顧客獲得も、お客様に対するアプローチが違うだけだという感覚はありました。
しかし、実際には惨憺たるものでした(笑)。
違う部署から降りてきた営業経験もない、“頭でっかち”の管理者でしたから。

新井 営業はまた営業の取りまとめ方がありますよね。強い親方がいてゴリゴリやる、という体育会的なやり方といいますか。

片山 それまでのわが社の営業は、夜討ち朝駆けの世界で、重たいカバンを持って通信講座のテキストを客先で広げてと、とにかく数をこなせということでやっていました。
しかし、環境が変わり、行っても会ってもらえないことが増えてきて、やり方を変えなければならないと感じていました。
当時は、テレマーケティングの走りと言いますか、マーケティングの企画をする人と、外回りで営業する人とを組み合わせようとしました。
しかし、営業の人からは抵抗にあい、頭で考えたことが現場では上手くいくわけがない、とよく言われました。

新井 その後、どうなっていくのでしょう。

片山 自分一人ではマーケティングの考え方について現場への浸透は図れないので、別途マーケティングのチームを作りました。
営業のそれぞれのメンバー・チームごとに担当制を敷きました。
営業の問題を解決してくれる組織が出来たことで、マーケティングチームが営業の横に機能するようになりました。
こうして、逆風下、当初の目標であった前年割れを、なんとか防ぐことはできました。

「役員」から「契約社員」への降格

新井 また功績を出されたということで、やはり順調なキャリアのようにお伺いできますが、その後はどうなっていったのでしょうか。

片山 当時、当社はグループ会社に派遣会社を持っていました。
こちらは毎年、前年比130%から140%増という勢い伸びていて、一方当社は頑張っても5%も伸びない。
事業の大きな成長を考えた時に、派遣会社と当社を共に成長させる戦略が必要とされました。

そこで私の新たな役割が生まれたのです。
まずは両社の営業統合を検討することから始めました。
統合という話ですから、派遣会社側の幹部が我々の側に様々なことを要求してくる、我々はそれを受け止めて営業のメンバーにつないでいく、はっきり言えばあまり面白い立場にはないわけですね(笑)。

新井 それでも上手くいけばいいんですが、今回の立場としてはどうでしたか。

片山 この時には役員という立場に引き上げられていたのですが、それは責任を取るべくして自分が配置された、ということをひしひしと感じるような立場のお仕事ではありましたね(笑)。

最終的には統合までは至らず、それぞれの会社が別々にやっていく、という結論になりました。
統合を目指したプロジェクトとしては成果が出なかったわけで、私はその責任者として責任を負うべきだ、という空気になっていったわけです。

そして、当社の会長(当時)から、「3月で引いてくれ」と言われました。
「3月下旬に新しい社長が来る。新社長に君のことは託してあるからよく話してほしい」という話でした。

新社長は、しばらく会社に残るのは構わないが今の立場は無いよ、というスタンスでした。
また、何をするにしても期間は1年以内だと。
元の職場に居続けることはできないので、1年のうちに自らの身を立てる新規事業でも作るか、それが難しければ転職してもらうしかない、ということでした。

新井 それで役員の立場から契約社員になったということなんですか。
今、「レジリエンス(resilience)」というように、『逆境に対する抵抗力』がリーダーの条件と言われていますが、どうやってこうした逆境を乗り越えていらっしゃったんでしょうか。

片山 心の回復はしばらく無かったですね(笑)。
大半の人は「片山さんにはもう近寄れない」ということで私のもとから引いていきました。
ただ、同期入社の連中はちょっと内線をよこしてきて、「4時半から空いているけどそのまま出られる?」と言ってくれて、早い時間から慰めめいた酒盛りをしていました。
実際は、彼らが私のことを心配してくれるのが心痛でしたが。

その後は転職活動もしながら、新社長からも言われた新規事業のアイディア探しもしていました。
これについては、自分自身の立場もあったので再就職支援ビジネスを調べていました。
私の知人から、アメリカにはエクゼクティブの再就職の支援ビジネスがあるという話を聞いていました。

環境と自身の変化の中で捉えた新しいビジネス

新井 ご自身が転職活動をするなかで、中高年の転職市場が上手く機能していない、これまでに培った知識やスキルが高くても活躍の場が無い、という当時の実態とビジネスプランが結びついたということでしょうか。

片山 私が再就職のために人材銀行に行って面接を受けたときのことですが、担当官の方から「まだ40代と若いのだから、その求人ファイルをめくってもらえれば何とかなりますよ」と。
この間5分です(笑)。求職者が並んでいる相談コーナーは“5分診療”みたいでしたね。

自分自身の体験の傍ら、こうした就職活動を繰り返している同世代や、50代の方々の深刻な求職中の顔つきを見ていて、この人たちはどうするんだろう、という思いもありました。

新井 それが片山さんのお気持ちに火をつけた、ということなのですか?

片山 あの時の担当官の面接が、5分間ではなくせめて30分は話をきいてくれれば、あなたの経験ならこういう職種で可能性があるとか、どういう売り込み方があるのか、といった話ができれば、もっと探しようもあったのではないかと。
結果的に役員等を経験したことが、かえって自分の仕事の範囲を狭めてしまう、ということになっていたわけです。

新井 このあと、ビッグチャンスがやってくるんですよね。

片山 再就職の支援ビジネスの調査に関連して、アメリカで行われていたキャリアカウンセリングの手法を使った事業計画書を書き始めていました。
3月の降格後、6月に調査を始めて、9月前にはひと通りの調査が終わっていました。
日本にも再就職支援会社が3年くらい前からぼつぼつ出始めていた時期で、こうした会社の社長さんにあわせて頂き、再就職支援ビジネスの秘訣を教わったり、マニュアルを貸して頂いたりしていました。

こうした情報を盛り込んだ事業提案書を会社に提出したところ、世相を考えるとちょうどいいかもしれないね、という話になりました。

その直後、1ヵ月後に起きたのが1997年11月の山一證券の破たんだったのです。

新井 私も当時、事業会社の人事部にいたのですが、山一證券の方の履歴書が大量に送られてきたことを覚えています。

片山 私どもが山一證券の人事にお邪魔したら、400人くらいの方の履歴書をお預かりして、この人たちの再就職先を一刻も早く決めてほしい、というご依頼を受けました。
会社としては再就職支援の費用を支払う力が無いので、人材紹介のビジネスで決めてほしい、という話でした。

新井 山一證券の話は非常に不幸な出来事でしたが、片山さんとしてはこの出来事を契機に浮上していくわけですね。

片山 身分も給与も特に変わらず、何も浮上したわけでもないんですが(笑)。
まずは事業提案書を急いで事業化しろ、ということを言われました。

むしろ仕事が見つかった僥倖に恵まれたといいますか、急こしらえの営業部隊をつくり、営業し始めました。
しかし、まだサービスの内容が理解されない頃で、行き場のない中高年のお世話・・・とういだけで「縁起の悪い話はききたくない、帰ってくれ!」というようなことも度々ありましたね。

そのうち、徐々に話を聞いてくれる企業も出来ました。
最初は大阪で4月に1名受け入れた方の再就職支援をしながら、現実のノウハウを身に付けていきました。

合わせてCDAが会社として事業化されていたので、カウンセラーも資格の勉強をしながら現場で仕事をするという、仕事と学びがワンセットになった実践的な事業でした。

新井 事業が急成長していくときはそうですよね。コンサルの現場でもよくあります(笑)。

片山 早期退職された方が我々のキャリアカウンセラーになるケースも多かったのです。
大手企業の部長クラスの方がキャリアカウンセラーとして入って頂き、初期20人くらいから始まり、150人くらいまで広がっていきました。
社内の売上比率も高まり、再就職支援ビジネスが会社の全事業売上の3分の1近くまで行きました。

新井 それはすごいですね。
でもその間、ずっと契約社員だったんですよね(笑)。

片山 1997年から6年間契約社員をやっていました(笑)。
事業と仕事はどんどん成長するのに、自分のポストと給与は止まっているという、非常に皮肉な運命にさいなまれた時期もありますね。

新井 しかし冒頭でもご紹介したとおり、その後は取締役に返り咲かれたということですので。
大変素晴らしいキャリアといいますか、とてつもないキャリアヒストリーをお聞かせ頂きました。

シニア世代のキャリアについて

新井 続いて、日本マンパワー様が注力されているシニア世代のキャリアについてお伺いしたいと思います。まずは一般的なお話から教えてもらえますか。

片山 我々は55歳以上の方をシニア層として定義しています。
まず我々の先輩にあたる団塊世代、今の67歳から70代前半の世代です。
高度成長を引っ張ってきた世代であり、会社の成長と自分の成長が重なっていたという点では、恵まれた世代といえます。
団塊世代のように、既に退職され、年金を満額頂き悠々自適な暮らしをされている方も多いです。

ただ、現在、66歳から70歳までの人がどれくらい働いているかというと、厚生労働省の調査では男性で約5割の人が働いているといいます。
65歳を超えたら働いていないだろう、と思ったらそれは大間違い、ということになります。これが第一世代の話です。

その次の第二世代について説明します。この世代は再雇用世代ともいえる世代です。
一昨年、高年法が改正・施行され、60歳から65歳までの方を雇用することが企業に義務付けられました。
この世代は団塊世代に比べるとやや恵まれていない世代です。
というのも、リストラという時代の余波をまともに受けた世代に当たるのです。
同期の多くが会社を去ったり、残っても大変な思いをしたりした世代ですね。

こうした経験を通じて、自分のキャリアは自分で考えないとまずいことになる、という学習をした世代と言えます。
とはいえ、実際には大多数の方が会社任せのキャリアという世代でもあり、やりたい仕事や地位に就くとか、自分で事業を起こすとか、自分のキャリアを自分で決めたように生きられる人は稀ですね。

新井 考えないといけないと言いつつ、まだ思考が内向きなんでしょうか。

片山 内向きと言えば内向きですね。
そもそも、自分が50歳を過ぎて会社を離れて生きることなんか、およそ考えたくもない人が多いですよね。
この人たちにとって一番つらいのは、自分の市場価値は何か、という問いに対して自分の専門性を答えなければならない、という経験でしょう。
それまで一生懸命に働き、ちゃんと給与をもらうことが一番の関心事で、自分の専門性が高いかどうか、世の中に通じるのかどうかなんて考えることはしてこなかったわけです。

新井 企業の側もそういうことをさせてこなかったのに、景気が悪くなったからと欧米の考え方をもってくるのも酷なことをしていますよね。

片山 もう1つの特徴は、役職定年制度ができたり、専門職制度が40代のうちに出来たりと、意外と早い時期にキャリアの選択を経験しているということがあります。

新井
 そういう方に対して、片山さんもキャリア支援のお手伝いをしてきたということなんですね。

片山 そうですね。私も、CDAとして15年ほど、キャリアデザイン研修のファシリテートも担当しています。
研修で気になるのは、今はいいけど自分がこの先どうしたらいいのか、よく分からない、という方が多いことですね。
50歳、あるいは55歳を迎えても、5年先にどういう働き方や仕事貢献をしたいのか、半分以上の人は見えていない、成行き任せというのが現実です。

新井 私もコンサルタントとして人事制度を多数作ってきましたが、ラインの管理職と専門職が分かれるのに、「では専門職の専門性とは何か」という質問に回答できない人事担当者はたくさんいました。
結局、管理職になれない人のための役職、という考えで回している会社が多いのです。

片山 50歳を過ぎて自分が何をしたいのかということまで、会社は決めてくれないのです。
ですから、過去の経験や能力から、これくらいのことはしたい、という仕事ビジョンは持っておいた方がいいのです。

新井 2000年頃にキャリア論として、「計画された偶発性理論」が出たわけですが、内向きの視点だけだと「偶発性」は起こらないんですよね。
キャリアは社外にもしっかりと目を向けておくことで見えてくるものです。
日本のこの世代では、まだどこか遠いところで起きていること、という感覚なのではないでしょうか。

片山 そうですね。少し自分に引き付けて考えるのであれば、変化は必ず起きるので、その変化は自分にとって全部がマイナスではなく、自分を活かすチャンスはそこに生まれる、と考えた方が良いのではないでしょうか。

新井 片山さんのような逆境にあった方でも大逆転することは起こるわけですよね。

片山 変化が起きたときに、変化に上手く対応するために、自分の役割や行動目的をどう見出すかですね。
自分にとってのチャンスを見出そうとする好奇心・挑戦マインドが大切ですね。
過去の経験や能力を後生大事に守るという発想ではなく、それらを使うときには使うし、使わないときにはいったん横に置いておく、という使い方なんでしょうね。
どうしても自分の経験してきたことや知っていることは使いたい、という人間の本性がありますので、それを使わなければ自分の存在感が感じられなかったり、価値が下落したように感じてしまいがちですが、何か新しいことを学ぶ良いチャンスだと考えた方がいいんですよね。

新井 柔軟な環境適応が大事なんですよね。

片山 そうですね。キャリアを活かし作る上で、“しなやかに環境適応していく”、というキーワードがあります。

新井 自分が培った専門性は、適応の段階でどこかで形を変えて役立つはずなんですが、自分の専門性をこうだと定義しすぎると状況に応じて上手く仕立て直したり、使いこなしたりすることができないんですよね。

片山
 自分をこうだと決めすぎている人は、次の柔軟な適応が難しくなりますね。

新井 起業にも当てはまることですね。
ネイルサロンを経営されている方で、起業してから一度も赤字を出したことが無い方がいるのです。
その方は実は、ネイルには強い思い入れがあるわけではなく美容全般に興味がある方で、いつも商売のことを考え、お客様にどういう価値を提供するかということだけを考えて、あとは柔軟に何でもやってきたと言っています。

反対にネイルがとても好きで起業した方は、ネイルサロンの営業を始めた日からそこに、言い方は悪いですがボーっと座ってしまって固まってしまうのです。
自分のお店があることを伝える努力をせず、お店の売上が伸びないので、さらに技術を磨く方向に走ってしまうんですよね。
あなたのことを知らないから来ないという話なので、先ずは知ってもらうためにチラシをまくなどの販促策を考えればいいのですが、そこに思いがいたらないんですよね。

片山 確かに自分の好きなことを愛してしまって、肝心のお客さんを愛するとはどういうことが分からない。
人の役に立つということのために身体を動かさないといけないのに、自分の好きなことのために腕を磨く、とかなりがちですね。

『島耕作』から『釣りバカ日誌の浜ちゃん』の時代へ

新井 シニア世代のキャリアに関して、お打合せの際に、「これからは『島耕作』より『釣りバカ日誌の浜ちゃん』だ」ということを片山さんが仰っていたのですが、もう少し詳しくお聞かせください。

片山 入社してから最初に目指すのは「せめてなりたや課長に」というのが15年くらいありますよね。
この課長のイメージがまさに島耕作です。次の45から50歳で部長を目指すわけですが、ここで浜ちゃんを目指すと脱落していきます。
結局、キャリアの上り調子の時には、島耕作らしき人材の方が、人材として有能ですし、人を引っ張るリーダーシップがあるというカッコよさがあります。

しかし、50代を迎え、上りが終わって横ばい・下り坂になっていくと、役職返上・離脱があり、それでもしっかり仕事をしていかないといけなくなります。
そのときに上級管理職のような島耕作気分が良い方向に作用するかというと必ずしもそうではない。

新井 職場がみんな島耕作だったら大変ですよ(笑)。

片山 そうですね、しんどい組織になりますね(笑)。1つの職場にリーダーは二人いらない、ということになるわけです。
そうなると、リーダーだった人がフォロワーに回るべき時が来るのですが、この切替えがなかなか難しい。

私が研修でお話しているのは、段階的に、いま島耕作が100%の人は、浜ちゃんを20%、30%入れていきましょうと。
役職定年を経て再雇用されるころには、浜ちゃん50%かそれ以上にしていくことを目指しましょうという話をしています。

要は、一緒にいて楽しい人、面白い人、励みになる人の方がいいんですね。
一緒にいてネジを巻く人、叱咤激励する人は組織の中に1人いればいいんです。ネジ巻きだらけの人の組織って変ですよね。

新井 これから現場の最前線のマネジメントって、島耕作ではだめじゃないかという議論が出ています。
これまでは会社からのご褒美は1つの価値観でやってきました。お金とポストですよね。

しかし、これからは日本も変わっていくなかで、女性の活躍や再雇用の社員などいろいろな立場の人材がいるわけです。
こうした中で、例えば育児と仕事を両立させている女性の中には、上位のポストを目指すよりもキャリアを横に展開しようとする方もいます。
このように同じ職場で働く社員の価値観がますます多様化する中では旧来のリーダー像ではダメなのではないか、と言う話が出ていますね。

片山 先ほどの島耕作の話は、組織のヒエラルキー・階層がしっかりしていて、その階層のリーダーになるというイメージですね。
しかし、いまは情報を駆使して、それを自分たちの経営・仕事情報に変えていき、現場で活用していくことがビジネスのあり方になっている。

そんな中で、ネットワークのキーマンになる人、仕事と仕事、人と人、人と組織を結び付けていく人が、これからの役職者なんだと思います。
それは「ネットワーカー」なんですよね。
ヒエラルキーの上から下に向かって正しいことをやらせるのではなく、みんなの知恵を集めてきて最良の方法を議論できる人が、その組織にとって良い結論を出せるんですよね。

新井 そうなると、ネジを巻くより、楽しい感じの人の方がいいですよね。

片山 そうですね。「俺も楽しいけどみんなも楽しいアイディア出してよ」という雰囲気のリーダーがこれから求められるでしょうね。

新井 これからはネジを巻いても反応しない人も出てくるでしょうしね。

片山 ほめ方と叱り方は本当に難しくなってきますね。「がんばれ」では現場を鼓舞することはできない。「バカやろう」ではパワハラにされる・・・。

新井 価値観の狭間というところで、これからのマネジメントでは、企業戦士という価値観を表に出したらアウトになりますね。
でも上の人はバリバリその価値観で育っているから、温度差がますます出てきそうです。

片山 仕事を楽しむ人、という仕事人のあり方。
仕事をやっていて楽しい、ということが、キャリアの下降期になっても目の前の仕事を楽しむという仕事の見つけ方ですね。

新井 ネットワーカーというとフリーランス、プロジェクト形式にも関わりそうですが、ピータードラッカーも言っている「パラレルキャリア」という考えにもつながりますよね。
大企業神話ではひとつの会社に働き続けるということでしたが、日本ではまだパラレルキャリアの考え方は浸透していっていません。
諸外国では職業人としてのキャリアから離脱する、例えば育児に専念するであったり、大学に入り直すであったり、ということも当たり前のようになされているのですが、日本ではキャリアからの脱落という捉えられ方をします。
パラレルキャリアを阻害するものにはどんなものがあると思いますか?

片山 パラレルキャリアはドラッカーが唱えた考え方で、「本業」以外に自分の能力や可能性としてやれることをパラレルにやってみる時代が来るよ、という意味合いで出されました。

この考えが普及していないのは、一つは普及を好まない企業体質があるでしょう。
一点集中主義が成功の秘訣とか美風とされ、社内の風土として、2足のわらじ仕事を嫌う、社員の副業が無規制に行われることを良しとしない。
社員もそれを知っているので、就業規則に副業禁止があれば二の足を踏んでしまいます。

新井 一部の企業では兼業や副業を規制しないケースも出ていますが、日本の伝統的な大企業では、雰囲気的にまだ難しいですよね。

片山 建前では社員の多様な働き方を認める、とパラレルキャリアをOKとしている企業でも、実際にパラレルキャリアで活動している人を見ると「アイツは変わっている」「何考えているのか」「上(管理職)は望んでいないのだろう」と言われてしまいます。
今の仕事に熱中している社員からみると、よく「そんな余裕がよくあるな」「売上も上がっていないのに、よくそんなことに時間を使っていられるな」と。

新井 みんなが集まって飲んでいて人事の話で盛り上がっているのに、興味を持たない人がいると違和感を覚える人もいますしね。

片山 やはり集団主義のダイナミズムというものが、本人の一歩前に進むという気持ちをなえさせる、ということはどの会社にもありますね。
規定がなかったとしても心に縛りを感じてしまう、というのはあります。

新井 女性に活躍してほしいということに対しても、特有の縛りというか働きづらさも出てきそうですね。
ちなみに片山様の、パラレルキャリア的なご活動はいかがでしょうか。
「高年齢者活躍協議会」等でのご講演や交流会活動もされているそうですが。

片山 パラレルキャリアでいうと、そもそも自分にやってみたいことがあるのか。会社や制度の問題ではなく、本業も一生懸命にやっておきながら、これは絶対にやっておきたい、ということが心にあるのか、ということが鍵を握ります。

私の場合は、50代を輝かせるということがライフワークとしてある中で、仕事もライフワークですし、こうした講演活動も自分のライフワークだと理解しています。
「高年齢者活躍協議会」は、カウンセラー仲間から誘われて活動を始めました。
まあ、楽しい生涯現役人生の応援団をやっていたいんですね。

新井 まだまだお伺いしたいお話はあるのですが、また改めてお伺いできればと思います。ありがとうございました。

片山 ありがとうございました。

※インタビューの様子は、株式会社アジア・ひと・しくみ研究所のホームページからお聴きいただけます。

プロフィール

片山 繁載(かたやま しげとし)様
株式会社日本マンパワー 取締役。
法政大学社会学部卒業。大学卒業後、株式会社日本マンパワーに入社。
教育事業部、人材開発部で教育研修業務を経験。1996年取締役就任。
取締役退任後、1998年再就職支援事業を立ち上げ、民間企業・行政機関の人事・キャリアコンサルタントとして、多数の個人・組織のキャリアカウンセリング、キャリアサポートのコンサルに従事。
傍ら行政機関の雇用・就業支援のコンサル、キャリアカウンセリング、一般企業のキャリア開発研修の講師・ファシリテータを経験。2013年よりJAD監事も務める。

※株式会社日本マンパワーのホームページはこちらから。